いっちゃんはビリビリマンー「高次脳機能障がい」なオットと私の日々の元になったISAO STORY7~10
2021年05月13日
ISAO STORY〜今を生きる〜7
*えっ?重度すぎてリハビリうけられへんの?
急性期の病院を退院する時期が来て
そこでようやく主人って?って思う事件がありました。
こちらが望めば治療が自由に受けられると思い込んでた私達には
衝撃的な事件でしたね
たまたま見たテレビでうちの家から割方近くでリハビリがすごく有名な
病院の事が特集されてたんです。
ここや〜〜
リハビリ入院をさせてもらえると思い込んで翌朝一番に電話をしましたが、
門前払いで………
重度の受け入れはないって
いくら頼んでもシャットアウト、
診察すらしてもらえない。受付の電話でアウトそんなあほな
診る前に門前払いって門の前にも行けてないやん⤵️
あんたとこ、
もう治る見込みありません。って言われた気分で、
電話のお姉さんに
あなた、自分のお父さんでも同じ事言いますか?って
泣きながら言ってしまってました。
でもダメなものはダメ。
さすがの能天気ママもへこみましたね
うちのいっちゃん、リハビリ入院の受け入れ先無いぐらい重度なん?
悔しくて悔しくて本気で泣いたのを覚えています。
そんな時
関西リハビリテーション病院の先生が面接してくださることになったんです‼️
診て下さるだけでも嬉しいかったですね〜〜
その後引き受けてあげると言ってくださって、本当に嬉しかったです。
そしてホッとしたのも事実です。
私は今でもその先生の事を助けの神と思っています。
大丈夫、引き受けるよってあの時の先生の優しい目が今でも忘れられません。
ISAO STORY〜今を生きる〜8
✴︎家に帰ろう。入学式に行こう。
関西リハビリテーション病院はとってもきれいな病院で、
今でもあの病院に受け入れていただけたことを心から感謝しています当時の。
でも佑香にはきつかったみたいです💧いっちゃんは超重度、
だからナースステーションのすぐそばの4人部屋重度の人の集まりです
そんな空間にいっちゃんも入院するわけです。
佑香ちゃん籠城事件勃発。いっちゃんのベッドのカーテンを引いて2時間、
どんなになだめてもわんわん泣いて出てこなかったことがありました💧私たちその頃
家族みんなが本当に疲れ果てていたんです。
だから病院の近くにマンションを借りて仮住まいしながら
病院に3人のうち誰かが付き添うっていう事をしてましたね
その時飼ってたラブラドールのナナちゃんは
私の母の友人が預かってくれて、今でもおばちゃんには感謝しています。
引っ越しを手伝ってくれたのが家族ぐるみでお付き合いしている田崎夫婦と南野さん夫婦。
一人では、何も出来ない私でしたから、感謝しかありません。
いっちゃん当時は椅子に座ることも無理でまるで廃人でした。
目も焦点が合わずほとんどつぶったまま😢でも担当の勝谷先生が
丁寧にリハビリを進めてくれて、私達家族を励ましてくれて目標をくれたのです。
まずは大東の家に
いっちゃんを連れて帰ろう‼️もう二度と家に帰ることは
ないかもと一時は覚悟したこともありましたから、
連れて帰れるなんて夢のような目標でした‼️
それをクリアしたら、次は遼君の大学入学式に連れて行くという
相当無茶な目標を決めて勝谷先生とリハビリに励みました。
根気よくリハビリをアプローチしてくれて、いっちゃんは少しずつ人に戻っていきました
療法士の皆さんにも看護師の方にも良くして頂きました
根気よく、根気よくほんとに根気よく、
リハビリを進めてくれて。
あれがなかったら今のいっちゃんはいないと思います。
車いすで散歩もよくしたし、夕方必ず病院の周りを
歩く練習しましたね
ピンク色に染まる夕焼け空が
きれいで毎日散歩しました。
ISAO STORY〜今を生きる〜9
✴︎固まった心を音楽が溶かす‼️
関リハでは音楽療法を取り入れてもらいました。
那須先生がギターで蘇州夜曲を弾いてくれたとき、
いっちゃんの心が震えて、
いつもボーっとして感情がないのに
その時だけは泣いたんです。
あと瀬戸の花嫁もよく泣きましたね
心から感動して涙が溢れるって感じです。
泣くという感情が湧いてきたのです。
一度東京から姪っ子が
お見舞いに来てくれて、彼女はピアノ教師なので、
ホールでプチコンサートをしてくれたんです。
そしたらその時歩けなかったいっちゃんが感動して
立ち上がり、歩いたんです‼️
やっぱり音楽って
脳にいいんや‼️って思いましたね。
関リハでは音楽療法の他に園芸療法・外出療法・
何でもチャレンジしました。
当時最新のWIIを取り入れて
リハビリしたり
俺流の八宝菜(いっちゃん得意料理)を作らせてもらったり
ほんとに関リハにはお世話になったんです
でも180日の壁があり退院しなきゃならない
もっとリハビリしたら人間らしくなるのに…
リハビリにこだわった私は、勝谷先生に頼み込んで
系列の丹波篠山リハビリ病院に転院させてもらいました。
そこで四ヵ月、
そしてその後は大分県の高次脳機能障害に特化した
諏訪の杜病院に転院するわけなんです。
ISAO STORY〜今を生きる〜10
✴︎合言葉はカッチャンした??
丹波篠山は大東から80キロ、
いつも木曜日の授業が終わってから迎えに走ります。
名塩で休憩して
(気持ちがしんどくて一気には行けなかったよなぁ〜)
そこから病院まで走ります。そして自宅で木・金・土・日を
過ごしまた、深夜に送るという生活をしてましたね。
丹波篠山のバザールというスーパーの鯖寿司、
美味しいくて、それをお楽しみに80キロの道のりを
毎週毎週通いました。
その頃から私は長距離運転手という別名をもらいました。
一度身の毛もよだつ事件が…
高速道路100キロで走行中、
いっちゃんがいきなり車のドアを開けたのです😱
エミーナの後ろ座席にいっちゃん・ゆか・遼君が乗っていたのですが、
もし転がり落ちたら 後続の車に引かれて即死ですよ😱
カッチャンした?(ロックの事)が合言葉になりました。
その頃からだんだん高次脳機能障害の不思議に悩まされることになります。
何で開けるかな💢👊👊
丹波篠山は自然豊かでとても環境が良い病院です。
自然が大好きないっちゃんは居心地がよかったようで、
体力的にはとても回復してきた時期ですね。
病院の周りをジョギングしたり、階段を3階まで駆け上がったり、
そんな事までできるようになってました。
それなりにお友達もできたりして、このまま普通に回復する?
と思ったりしました。
私の考えはどこまでも
どこまでも甘いのです。
〜〜to be continued〜〜
このISAO STORYは
2018年1月から3月にかけて
Facebookで投稿した文章です