いっちゃんはビリビリマンー「高次脳機能障がい」なオットと私の日々の元になったISAO STORY4~6

2021年05月12日

ISAO STORY〜今を生きる〜

そんないっちゃんが
職場内で倒れたのが年末の締日
2007年12月28日です。
年末で原因がわかるまで2週間以上かかり、その原因が分かった時点で命の保証はないといわれ
阪大から国立循環器病センターに送られました。
検査が進むにつれ事の重大さがひしひしと理解できて来て
不安でしたね
😨
そのとき息子大学受験真っ最中、
年末からずっと佑香ちゃんと2人で病院へ通って遼くんには隠していたけど、
さすがに隠し切れず
センター試験終わった当日、
2時間かけて国順に来てもらいました。
意識混濁のパパに「パパセンター9割7分行けたで」と報告すると、
意識混濁のはずのパパが遼君の頭をヨシヨシしたの覚えてます
😭😭
それから数日してドクターに呼ばれご主人は全国的にもレアなケースで症例がない。
治療法はなくこのままでは数日中に・・・
手術も前例がなく極めて難しい、
成功する確率は0.1%、
99.9%は助かりません。
そして0.1%で助かったとしても全盲寝たきりの植物状態になる
可能性が高いだろうと宣告を受けました。
ショックでしたね。どうやって家まで帰ったか覚えてません。
私に選ぶなんてできない。
忘れもしません。
予備校帰りの息子を迎えに行った
住道駅のローターリーで
「遼君パパがなぁ・・・」
「ママはどうしていいかわからへん」
遼くんは遠くを見てしばらく沈黙が続き……
そして深く息をして、
「手術するに決まってるやん。
このままやったら冷たくなるんやろ……
寝たきりになっても
目が見えなくても
僕は暖かいパパがいてくれるだけでいいから
手術しよう」
その一言で手術することにしました。
18歳の遼君  君は偉い!

ISAO STORY〜今を生きる〜

✴︎ゼブラゾーンで泣いて、泣いて。
ちょっと戻りますが、
10月ぐらいからなんだか
いっちゃんの調子悪くて、ゆかと相当心配して、
大学病院受診したり、
検査とかずっとしてましたね・・・
でも全然わからなくて。
この時期だけで1冊本が書けるぐらい😥
倒れた時期も悪くて
年末だったから
かかってた阪大病院には入院できず、
見当違いの病院を紹介され、
2週間入ってました。
その間毎日佑香と通いましたが、
本当に辛かったです😓
今でもその道を通ると
胸がざわつき涙が出てきますね・・・
2度と行きたくない場所です。
一度夜中の12時に公衆電話から
いっちゃんが電話してきたことがあって……
支離滅裂な電話だったのですが
助けてって言う叫びのような気がして、
飛んでいって連れて帰りたいって思って、
ゆかと泣きました😢
あの2週間の事は思い出したくない時間です。
病院の帰りは2人ともいつもぐったりでした。
一日1回の面会を無理に頼んで2回、
1回目が済んだら
時間を潰してまた2回目
面会して
本当に帰りはぐったりでした。
佑香が泣くのが早いか
私が先に泣くかで
いつもゼブラゾーンで車を停めて
ひとしきり二人で泣いてから
また運転して家に向かってました。
小さな佑香が助手席で益々小さくなって、
なんでパパなん?
なんで佑香のパパなん?って
肩を震わせて泣いていました。
佑香は遼君には内緒やから、
自分がしっかりしないとって、
振り絞って私に寄り添ってくれました。
辛かったと思います。
だから佑香はもう一生分親孝行を
あの時にしてくれたんです。
一番切なく歯がゆく
言葉に出せない時期でしたね。
お正月明け、
阪大病院の担当医の受診日を待って
転院させてほしいと直談判しに行きました。
それも佑香が学校を休んで
一緒に行ってくれました。
16歳の子には
すごく重い時間だったと思います。
でも遼君の代わりに私にいつも
寄り添ってくれていました。
16歳の胸は心配で押しつぶされそうやったと思います。
佑香は今でも
家族の中で一番パパが好きやと思います。
大学病院でも原因がわからなくて
(見当違いの科にかかっていたという
絶望的な間違いを犯していたので)
でもいっちゃんが教授回診の時に
最後の力を振り絞り、
担当のドクターの白衣をつかんだんです。
それで先生がこれは何か
見当違いの事をしているのではと思われ、
至急検査をして病気がわかりました。
その時のいっちゃんを私は今でも
心の底からリスペクトしています。
私はこれで原因がわかったから、
病気は治ると信じていたのですが、
先生は絶望的だと知ってか、
国立循環器病センターに
あわてて送り込まれました。
みんなバタバタと急いでいましたね・・・
搬送の救急車に2人も
ドクターがついて来て下さって
私はえらく親切やなぁって思ったけど、
搬送中に亡くなると予想されての事って
私だけがその事実に
気が付いていなかったのです。

ISAO STORY〜今を生きる〜

雪だるまと両手にオムツ

国立循環器病研究センター(国循)に転院してICUに入ってた時期は遼君と佑香と3人でたった数分の見舞いに通いましたね。
佑香とパジャマにパパ頑張ってって刺繍して、毎日毎日・・・でも必ず治ると信じて通いました。

手術の日佑香が担当の佐藤先生に手紙を渡したようで、
あんな手紙をもらったのは初めてだと言われていました。
患者さんはどなたもみんな一緒、ドクターは必至で助けようとしいる、でも佑香さんの手紙は心に響きました。スタッフみんなの前で読んでから手術に入りましたと
手術が終わってから聞きました。

佑香はほんとにずっと当初からの事を知っているので随分泣いたし小さな胸を痛めたと思います。

佑香曰く
当時の悲しく苦しい思いは箱に入れてぐるぐる巻きにして心の奥のわからんとこに鍵かけて封印してるそうです。

今でも思い出すのは手術後のパパ、前例のない大手術、負担を最大限軽くするために
チューブにいっぱい繋がれ寝かされていました。
顔が青白く死んでいるみたいでもちろん動かへんし、思い出すと今でも胸が苦しくなりますね。
だからたとえ介護がしんどくても
あったかいいっちゃんが隣にいてくれると私達は安心するんですよ。

手術がうまくいったと聞いて、また能天気な私はすっかり元気になると、奇跡は起こったと思い込んでいました。
高次脳機能障害という言葉すら知らんほんま天然でした。

一般病棟になって、
国循の面会時間は
13時から20時、20時になると
一人でおいて帰るのが忍びなくて
カセットに家族の声やパパの好きそうな歌を録音してずっと流してもらうように頼みました。
私達が部屋にいて
そして音楽をかけていたとき、
意識のなかったいっちゃんが口パクしたんです!!

オリビアを聞きながらでした。
私も佑香も大喜び希望が見えた瞬間でした。
そこからボールを握らせたり
話しかけたり、
きっとよくなると信じて佑香と通いつめました。
遼くんも緑地公園の予備校からいつも来てくれました。

ちょうど今頃2月の事、
雪が降った日があって、
いっちゃんに見せようと佑香と雪だるま作ってたら
お子さんですか?と声をかけられたことがありました。

佑香がいいえパパですと答えてましたがどんなに辛かったと思います。
私はあかんたれのよわっちいママやから、佑香が当時どんなに悲しかったか慮る余裕はなかったですね。

ただ、学校帰りに電車を乗り継いで北千里の駅から両手にオムツを買って持って歩いてきた姿には・・・今でも涙です

〜〜to be continued〜〜

このISAO STORYは
2018年1月から3月にかけて
Facebookで投稿した文章です

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